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安倍元首相の国葬で思ったこと [日記]

皆さま、こんばんは。
この不定期更新ブログに目を留めて下さりありがとうございます。

先日は、殺害された安倍元首相の国葬が行われましたね。
報道によると国葬が行われたのは日本国憲法下では2例目なんだとか。

この国葬に、私は日本の終わりを感じました。

以下、理由をいくつか述べます。

第1に、国民の目を欺くための国葬だったのではないかという気がしたからです。

旧憲法下での最後の国葬は山本五十六元帥海軍大将の国葬だったとか。
皆さんご承知の通り、山本元帥の国葬の後、日本は滅亡しました。

そう思うと、山本元帥の国葬は、連戦連勝と言って国民を偽っていた嘘がバレたことを取り繕うためでもあったのではないか・・・そういう気もいたします。

安倍さんの政策は「アベノミクス」という言葉で表される、マイナス金利まで導入した大規模な金融の量的緩和でしたが、結局は20世紀と異なり第三次産業中心となった国内産業の活力喪失、メーカーは生産拠点を海外に移しているため、円安の拡大による富の国外流失を招き、もはやかつての繁栄を取り戻すことは不可能となりました。

まさに、「アベノミクスで経済復活」「経済は回復し、戦後最長の景気拡大である」という政府(自由民主党)の言葉が、いままさに国民の実感として嘘・偽りであったことが明らかになっています。

そう、「連戦連勝」と言っていた時期の山本元帥の戦死と、「アベノミクスで経済復活」と言っている中で国民生活が破綻しつつある現状が重なって見えるのです。

政府(自由民主党)としては、失敗は決して認めたくない。だから「国葬」で国民の目を欺こうとしたのではないか。そう思えます。

第2に、保守層の劣化、絶滅です。

内閣総理大臣経験者は、通常亡くなると「正二位」に叙せられます。これは律令時代の左右大臣に相当すると考えられているからです。(常設の職ではない太政大臣は従一位または正一位)

このため、佐藤栄作さんが亡くなった時に従一位に叙せられてから、長らく内閣総理大臣経験者が従一位に叙位されることはありませんでしたが、中曽根康弘さんが2019年に亡くなった時、44年ぶりに叙されました。そして、このたび安倍さんが叙位されました。

でも、中曽根さんは海軍少佐だったので、従六位の位階を有していました。そして、日本国憲法下で、従一位に叙された人は、皆、正二位(牧野伸顕、松平恆雄、鈴木貫太郎)や従二位(幣原喜重郎)、正三位(吉田茂)、従四位(佐藤栄作)という位階を有していました。つまり、無位からいきなり従一位に叙されたのは、安倍さんが初めてです。皇族を除き、平民からいきなり従一位に叙せられたのは日本の歴史始まって以来です。だからこれは、百姓から天下を取り、大出世した人の代表格と言われる豊臣秀吉よりすごい事なのです。秀吉ですら、天下人を目指す中で、無位から従五位下からはじまり昇叙を重ね、従一位関白・太政大臣に任ぜられるという順序を経ています。そして、没後追贈ではありますが、大正4年に正一位を贈られています。(豊国大明神としての神階は、神号授与と同じ年の1599年に正一位に叙せられています。)

正一位は現行憲法下では追贈を含めて叙位された例がないため、現在の運用上最高の位階を・・・と支持者の方々は考えられたのでしょうが、こういう伝統や歴史を無視した考え方に「健全な保守」の絶滅を感じてしまいます。いきなり「大勲位菊花大綬章」に頸飾も付して授与した姿勢にも現れているように思います。つまり「自由民主党」は保守政党を名乗ってはいますが、本当の意味で日本の有職故実に通じた、真の保守の思想を持った人がいないという証拠だと思います。

伝統を重んじるなら、官職相当の正二位に叙してから、頃合いを見て従一位を追贈すべきだったでしょう。頸飾もその時でよかったのでは?と思います。つまり、今の保守層や保守政党は皆エセ保守、ニセモノの保守であり、伝統など何一つ顧みることのない人々なのです。

まあ、本当の保守政党なら、日本社会を破壊し、日本のすべてを大韓民国に捧げるべきことを教義に取り入れている反社会的宗教団体などと付き合うことは無かったでしょう。このことも、安倍さんや自由民主党の皆さんがエセ保守であることを表していると思います。

健全な保守がない国には、健全な革新も生まれません。対立軸がないからです。健全な保守も革新もないところには、健全な政治は生まれません。そして、健全な政治のないところに、健全な国は生まれません。健全ではない国は、活力なく、他国にいいようにされてしまうでしょう。これが三つ目の理由です。

つまり、以上の三点をまとめると、エセ保守政党が政権を握り、伝統を無視し、社会を破壊し、国民を欺いている現状では、日本は周辺諸国との競争に負けて滅んでしまう、だから安倍さんの国葬から見えたことから、日本の終わりを感じたのでした。

さて、安倍さんは、生前は国民の言う事に耳を貸さず、縁故主義で行政の公平原則を捻じ曲げ、いかがわしい宗教団体と昵懇でした。心ある人々があらゆる疑惑・あらゆる懸念を国会の場で明らかにせよと要求したにもかかわらず、一切の声を無視しました。私には、この態度が、この人は人の言葉に耳を傾けない、という印象を容疑者に持たせ、殺害に至らしめたと思えてなりません。

民主主義はコンセンサスの形成を通じて行われる政治の一形態です。このため、本来は民主主義が進展すると、政治家個人の生死は重大な意味を持たなくなります。皆の同意により意思決定がなされているから、誰か特定の個人を非合法の手段で排除したとしても、グループのほかの人々が集団で進めて行くからです。そうなると、暗殺は意味を持たなくなります。

ところが、この度の事件はたいへんなインパクトを社会にもたらしました。少なくとも、政権を担う政党がニセモノの保守政党であり、外国人に操られていたことが明らかになりました。

そういう意味では、安倍さんはやはり現代の権力者、いや独裁者だったのでしょう。独裁者の下では政治は縮退します。保守政党や保守層が劣化し、革新もまた劣化したのも是非もない事なのかもしれません。これを立て直すのは容易ではないでしょう。もう不可能だと言っても良いでしょう。そして、そのために日本が再び滅亡することは、もはや避けられないことなのでしょう。
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