江戸東京たてもの園(その2) [名所案内]
おはようございます。讃岐人です。
今朝は、私の住む街では、ごろごろと雷が鳴っていて、誠におっかないです。
速やかにへそを隠したことは言うまでもありません。
さて、今日のたてもの探訪、ではなく記事は、「江戸東京たてもの園」西エリアの三井八郎右衛門邸の内部です。
「三井八郎右衛門」とは、現在の三井系各社の始祖である三井高利(みつい たかとし 1622~1694)の長男の三井高平(みつい たかひら 1653~1738)からの三井家当主が代々名乗っている名前です。
この家を建てた方は、第11代三井八郎右衛門こと、三井高公(みつい たかきみ 1895~1992)さんで、戦後の財閥解体などで三井系各社の支配権を失うなどの激動に遭いながらも、その後は三井系の幼稚園である「若葉会幼稚園」の経営などをされていた方です。余談ですが、同幼稚園はお受験界ではかつては「御三家」とよばれた位の名門なんだそうです。(ほかのふたつは、「松濤幼稚園」(閉園)と「枝光会幼稚園」だったそうです。)
もともとは1906年に建てられた本邸の一部だったそうです。その本邸の大部分が戦災で焼失し、1952年に残った建物をもとに、その他の三井家所有の物件を組み合わせて建てられたのが、現在見ることができる、この「三井八郎右衛門邸」なんだそうです。
では、内部を見てみましょう。
最初に当主である高公氏の寝室です。
寝室のある二階からの眺望です。
1階に移ります。かつては、大勢の使用人の皆さんが働いていたであろう、厨房と配膳室です。
食堂です。奥が客間となっています。
客間側から見るとこんな感じです。
食堂や客間からは縁側越しに庭がよく見えていました。(写真は、お客さんが多くて撮れませんでした。)
さて、その庭に突き出した形で建てられている「望海床」と呼ばれる部屋です。
西麻布に三井邸は建っていたのですが、もともと庭には茶室があり、その茶室に招かれたお客さんの控室として使用されていた部屋だそうです。
これで、今日は終わりです。
三井邸は、財閥当主の居宅でありながら華美に過ぎず、主人の人柄がしのばれるみごとな邸宅でありました。
それでは!!
2015年9月18日 記事改訂
今朝は、私の住む街では、ごろごろと雷が鳴っていて、誠におっかないです。
速やかにへそを隠したことは言うまでもありません。
さて、今日のたてもの探訪、ではなく記事は、「江戸東京たてもの園」西エリアの三井八郎右衛門邸の内部です。
三井八郎右衛門邸
「三井八郎右衛門」とは、現在の三井系各社の始祖である三井高利(みつい たかとし 1622~1694)の長男の三井高平(みつい たかひら 1653~1738)からの三井家当主が代々名乗っている名前です。
この家を建てた方は、第11代三井八郎右衛門こと、三井高公(みつい たかきみ 1895~1992)さんで、戦後の財閥解体などで三井系各社の支配権を失うなどの激動に遭いながらも、その後は三井系の幼稚園である「若葉会幼稚園」の経営などをされていた方です。余談ですが、同幼稚園はお受験界ではかつては「御三家」とよばれた位の名門なんだそうです。(ほかのふたつは、「松濤幼稚園」(閉園)と「枝光会幼稚園」だったそうです。)
もともとは1906年に建てられた本邸の一部だったそうです。その本邸の大部分が戦災で焼失し、1952年に残った建物をもとに、その他の三井家所有の物件を組み合わせて建てられたのが、現在見ることができる、この「三井八郎右衛門邸」なんだそうです。
では、内部を見てみましょう。
最初に当主である高公氏の寝室です。
寝室のある二階からの眺望です。
1階に移ります。かつては、大勢の使用人の皆さんが働いていたであろう、厨房と配膳室です。
食堂です。奥が客間となっています。
客間側から見るとこんな感じです。
食堂や客間からは縁側越しに庭がよく見えていました。(写真は、お客さんが多くて撮れませんでした。)
さて、その庭に突き出した形で建てられている「望海床」と呼ばれる部屋です。
西麻布に三井邸は建っていたのですが、もともと庭には茶室があり、その茶室に招かれたお客さんの控室として使用されていた部屋だそうです。
これで、今日は終わりです。
三井邸は、財閥当主の居宅でありながら華美に過ぎず、主人の人柄がしのばれるみごとな邸宅でありました。
それでは!!
2015年9月18日 記事改訂
2015-09-18 06:03
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