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江戸東京たてもの園(その10) [名所案内]

おはようございます。

昨夜、NHK総合で放送していた「今夜も生でさだまさし」を観て寝不足の讃岐人です。

さだまさしさんのファンではありませんが、紅白の後の「ゆく年くる年」の後に放送された第1回をたまたま観て以来、できる限り観るようにしています。

放送の中で「最近の日本人の日本語の語彙が貧弱」という話題がありました。貧弱であることには同意しますが、「貧弱」になったのではなく、「単純化」したという方が正確であるような気がします。

日本語の語源は、「やまとことば」、「漢語」それと「西欧語等の外国語」であります。その体系すべてを学ぶことは、大衆教育ではまず不可能です。大衆化とは、「そこそこのところ」に合わせることであると思います。「そこそこのところ」に合わせたら、そりゃあ多くを学んだ人から見たら「貧弱」に見えますよね。

言葉は、相手と自分との共通の認識の上で成り立つわけでして、相手のわからない言葉で何か言っても、意味が通らず全くの無益であると考えます。大昔の、教育をごく限られた社会階層の人々が独占していた時代であるならば、難しい言葉も教わる余裕があるでしょうから、お互いに難しい言葉でやりとりしても意味が通るでしょう。

繰り返しになりますが、現代教育は大衆化、すなわち単純化された教育を受ける時代です。言い換えるならば、平易な言葉でお互いの意思疎通を図ることを前提とした教育体系を持った時代です。そういう事情を考慮せず「細かな意味ごとに言葉を使い分けるべき」というさだまさしさんや、紹介された人物の論は、いささか衒学(げんがく:学問をひけらかすこと)的なように思いました。

それに、単純な言葉の中に万感を込めることも、日本語(やまとことば)の特性であると思いますので、その点でも「細かな意味の違いごとに細かく言葉を使い分けるべき」という論は、いかにも漢語的で違和感を覚えました。

さて、前置きはこれくらいにして、本題です。
今回は、いくつかの小建物および内部を見ていない建物です。

最初に、上野消防署望楼上部です。

火の見櫓.jpg


「望楼」とは、いわゆる「火の見やぐら」のことで、かつては消防署の屋上や近傍に必ず設置されていました。今でも、古い消防署の庁舎には残っている所も多いと思います。今は建物の高層化で用をなさなくなったり、電話などの電気通信による通報網が確立されたりしたので、設置されなくなりました。

次に、万世橋交番です。

交番.jpg


万世橋とは、今の秋葉原の付近です。かつては「万世橋駅」という駅があり、中央本線の起点でした。「万世橋駅」は1912年(明治45年)開業、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失し1943年(昭和18年)に廃業しました。

駅舎は、その後「交通博物館」として使用されていましたが、それも2006年(平成18年)に閉鎖され、中央線の高架と一体となっている部分だけを残して解体、残された部分も今では商業施設「マーチエキュート神田万世橋」の一部になっているそうです。

その万世橋駅の駅前交番だった建物なんだそうです。

その内部(休憩室)はこんな感じです。

交番の休憩室.jpg


次に、皇居正門の石橋に取り付けられていた飾電灯です。

皇居正門石橋飾電燈.jpg


最後は、センターゾーンにある「西川家別邸」です。
内部を見る時間的余裕がなく、外観だけです。

西川家別邸.jpg


庭園はこんな感じです。

西川家別邸の庭園.jpg


今回はここまでといたします。
次回は、その他の建物や記念碑、その他を紹介します。
ありがとうございました。

たてもの園案内図.jpg

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コメント 6

たんちんぷにん

“江戸東京たてもの園”おもしろうそうですね。行ってみたいです。
このシルバーウィークは東京に4泊していたのですが、あまりココ!という所へ
行けませんでした。あ、でも楽しかったですよ^-^
讃岐人さんが以前の記事で紹介されていた小金井公園にも行ってみたいと
思っていたんですけどね。今回は違う公園になりました。
機会はまたあると思うので、候補として楽しみにおいておきます♪
by たんちんぷにん (2015-09-27 09:53) 

讃岐人

たんちんぷにんさん、こんにちは。
東京にいらしてたんですね。
小金井公園は、立川の国立昭和記念公園ほど大きくなく、遊び場もちょうどよいところにあるので、家族のお出かけには良いと思います。
ぜひ、足を運んでみて下さい。
コメントありがとうございます。
by 讃岐人 (2015-09-27 12:44) 

johncomeback

言葉は生き物で変化するのは当然ですが、
「ヤバい」と「全然」が肯定的な意味で使われるのに
馴染めないオッサンです。
by johncomeback (2015-09-27 18:02) 

ojioji

現代日本人の語彙について、おっしゃることもわかるのですが、それにしても単純化されすぎて感覚的な語彙だけで完結しているキライがあるように感じます。万人に通じる記号としての言語と、理解できたり味わえたりする人たちだけの間で通じる言葉とあったほうが、より深く広い言葉により世界を楽しめて人生も豊かになる気がしております。などと御託を並べたくなるくらい感情や感覚だけで生きているとしか思えない人たちによる傍迷惑な所業に呆れることが多い昨今だからであります。ちなみに、さだまさしさんは相性がいまいち合わなくて敬遠しているのですが、その彼よりも、快不快律だけで生きている人たちへの辟易や大なりです。
by ojioji (2015-09-27 19:38) 

讃岐人

johncomebackさん、こんばんは。
私も、「ヤバイ」や「全然」の現代風の使い方には違和感を覚えます。しかしながら、これから社会の中核となっていく若い人たちが使い、それが止む気配がない以上、違和感を持つ人が少数となり、多数が使用する言葉が「正しい言葉」になっていくのでしょうね。
でも、それは私にとっては希望の無い未来であると言えます。今の「若者言葉」は粗暴に過ぎ、実によくありません。
粗暴さの裏に潜む、価値観の転換を恐れずにはいられません。
コメントありがとうございます。
by 讃岐人 (2015-09-27 23:15) 

讃岐人

ojiojiさん、こんばんは。
私も、実はojiojiさんと同じ意見であります。問題は「単純な言葉」の負の側面としての「粗暴な言葉」が幅をきかせていることだと思います。私は、単純な言葉で「豊かな言語表現」を行うことは十分可能だと思っています。童謡がその好例でしょう。
もちろん、たくさん言葉を知っていれば、言葉は意味を伴いますから、自分の言いたいことに適合する表現を自在にあやつることもできるでしょうし、同じような知識を持つ人と支障なく意思の疎通が図れた時は、なんとも言えない爽快さを味わうことができるでしょう。ですから、できれば多くの方が文学や古典に触れ、豊かな言葉の世界に遊んでもらいたい、というのが本心です。
しかしながら、人には個性があり、向き不向きもあります。経済的事情などの外的要因もあるでしょう。そのため、どうしても言葉の世界に没入できない方も多いでしょう。また、かつての社会とは異なり、今は公私とも「同じような水準」の人とばかり交際すればよいわけではなくなってきています。そこで大切になることは、基礎的語彙で意思の疎通を図る技術であると思います。これは単純であっても、粗暴ではない言葉の運用が求められるでしょう。
対して、粗暴なやり方で感覚や感情を「味噌もくそも一緒に」しているのが、例えば「ヤバイ」に代表されるような、「耳障りな若者言葉」なんでしょうね。
私は、粗暴な言葉の使い方を「時代による意味の変化」として肯定するつもりは全くありません。なぜなら、粗暴な言葉の裏には、これまで日本の社会に安定や繁栄をもたらしてきた価値観の変容が潜んでいるような気がするからです。
そのため、今、小学校などでやるべきことは、難しい言葉を詰め込むことではなく、ていねいな言葉の使い方を教えることであるように思います。なぜなら、ていないな言葉の使い方の基本は社会的立場の違いによって言葉を使い分けることであり、その基礎は目上の人、先生、両親を敬い、友人や同輩に信義を尽くし、目下の者を慈しむ心であると考えるからです。その心を守り、育てることが、日本社会を日本的にしてきた規範を守ることにつながる、と私は考えます。
長文失礼いたしました。
コメントありがとうございます。
by 讃岐人 (2015-09-27 23:28) 

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