江戸東京たてもの園(その7) [名所案内]
おはようございます。
シルバーウィークも終わり、今日からお仕事や学校に復帰なさる方も多いと思います。二日しか平日が無いというのもかえって気忙しいものではありますが、ボチボチと過ごしていきたいものですね。
今回も江戸東京たてもの園の続きです。
東ゾーンの「下町中通り」をメインに紹介します。
下町中通りには、通りを中心に実にたくさんのお店が再現してあります。
そのうちのいくつかの写真をご覧ください。
最初に、乾物屋(大和屋本店)です。
たまに、今でも地方に行くと、商店街に同じようなたたずまいの乾物屋さんを見ることができます。
次に、化粧品屋さん(村上精華堂)です。
店内の様子です。
村上精華堂の裏は、化粧品の調合を行う作業場になっていて、調合作業に使用していた道具類が展示してありました。昔の化粧品屋さんは自分の家で化粧品を調合していたんですね。
次に、醤油屋さん(小寺醤油店)です。お酒も扱っていた様で、TVのサザエさんでおなじみのいわゆる「三河屋」です。
店内はこんな感じです。
量り売りのための樽や升、じょうごなども置いてありました。私がこどもの頃は、さすがに量り売りは廃れていましたが、まだこんなお店があったように思います。次第にスーパーマーケットやコンビニエンスストアになっていき、今ではもう見なくなりました。
次に、旅館(万徳旅館)です。
なんと、この旅館は1993年(平成5年)ごろまで青梅市内で営業していたそうです。近世の旅籠の特徴を良く残しています。
実際は、解体されるまではある程度改装されていたそうですが、青梅から江戸東京たてもの園に移築される際に、関係者に聞き取るなどして、昭和初期頃の状態を再現したそうです。
ほかにもいろいろとありますが、あとは実際に観ていただいた方が良いと思います。
さて、このエリアには「店蔵型休憩棟」なる建物があり、1階が休憩所、2階が「たべもの処「蔵」」という食堂になっています。誠に遺憾ながら、写真を撮るのを忘れていました。
そのかわり、屋台の方はバッチリ撮ってきていますので、そちらを紹介します。
この屋台ではたこ焼きや焼きそばのような軽食や、ジュース、コーヒー、お酒などを扱っていました。「自家製しそジュース」なるものを推していたので、休憩がてら注文してみました。
紫の色が鮮やかですね。甘さが体に染み入るようでした。
今回はここまでといたします。
次回は、銭湯などを紹介します。
ありがとうございました。
シルバーウィークも終わり、今日からお仕事や学校に復帰なさる方も多いと思います。二日しか平日が無いというのもかえって気忙しいものではありますが、ボチボチと過ごしていきたいものですね。
今回も江戸東京たてもの園の続きです。
東ゾーンの「下町中通り」をメインに紹介します。
下町中通りには、通りを中心に実にたくさんのお店が再現してあります。
そのうちのいくつかの写真をご覧ください。
最初に、乾物屋(大和屋本店)です。
たまに、今でも地方に行くと、商店街に同じようなたたずまいの乾物屋さんを見ることができます。
次に、化粧品屋さん(村上精華堂)です。
店内の様子です。
村上精華堂の裏は、化粧品の調合を行う作業場になっていて、調合作業に使用していた道具類が展示してありました。昔の化粧品屋さんは自分の家で化粧品を調合していたんですね。
次に、醤油屋さん(小寺醤油店)です。お酒も扱っていた様で、TVのサザエさんでおなじみのいわゆる「三河屋」です。
店内はこんな感じです。
量り売りのための樽や升、じょうごなども置いてありました。私がこどもの頃は、さすがに量り売りは廃れていましたが、まだこんなお店があったように思います。次第にスーパーマーケットやコンビニエンスストアになっていき、今ではもう見なくなりました。
次に、旅館(万徳旅館)です。
なんと、この旅館は1993年(平成5年)ごろまで青梅市内で営業していたそうです。近世の旅籠の特徴を良く残しています。
実際は、解体されるまではある程度改装されていたそうですが、青梅から江戸東京たてもの園に移築される際に、関係者に聞き取るなどして、昭和初期頃の状態を再現したそうです。
ほかにもいろいろとありますが、あとは実際に観ていただいた方が良いと思います。
さて、このエリアには「店蔵型休憩棟」なる建物があり、1階が休憩所、2階が「たべもの処「蔵」」という食堂になっています。誠に遺憾ながら、写真を撮るのを忘れていました。
そのかわり、屋台の方はバッチリ撮ってきていますので、そちらを紹介します。
この屋台ではたこ焼きや焼きそばのような軽食や、ジュース、コーヒー、お酒などを扱っていました。「自家製しそジュース」なるものを推していたので、休憩がてら注文してみました。
紫の色が鮮やかですね。甘さが体に染み入るようでした。
今回はここまでといたします。
次回は、銭湯などを紹介します。
ありがとうございました。
江戸東京たてもの園(その6) [名所案内]
おはようございます。
今日の秋分の日で「シルバーウィーク」もおしまいですね。
自動車でお出かけの方、各地で大渋滞が発生していたようですね。私こと不肖讃岐人も月曜の夜から火曜の早朝にかけて、静岡と神奈川の県境付近で大渋滞に遭遇していました。
並行する高速もびっしりと車が連なっていました。
渋滞はイライラしますが、皆さん、どうぞ安全第一で楽しい連休の最終日をお迎えください。
さて、今回は江戸東京たてもの園の東ゾーンです。
東ゾーンは、近代以降の東京の下町の街並みが中心となています。
「下町中通り」と名付けられています。この通りに商店街が再現されています。
こういった住居兼用の商店が並んでいます。
この通りの南側には、かつて東京を縦横に走っていた路面電車が保存・展示されています。
電車の中は、こどもの遊び場になっていました。
今回はここまでといたします。
次回は、東ゾーンの続きです。
ありがとうございました。
今日の秋分の日で「シルバーウィーク」もおしまいですね。
自動車でお出かけの方、各地で大渋滞が発生していたようですね。私こと不肖讃岐人も月曜の夜から火曜の早朝にかけて、静岡と神奈川の県境付近で大渋滞に遭遇していました。
並行する高速もびっしりと車が連なっていました。
渋滞はイライラしますが、皆さん、どうぞ安全第一で楽しい連休の最終日をお迎えください。
さて、今回は江戸東京たてもの園の東ゾーンです。
東ゾーンは、近代以降の東京の下町の街並みが中心となています。
「下町中通り」と名付けられています。この通りに商店街が再現されています。
こういった住居兼用の商店が並んでいます。
この通りの南側には、かつて東京を縦横に走っていた路面電車が保存・展示されています。
電車の中は、こどもの遊び場になっていました。
今回はここまでといたします。
次回は、東ゾーンの続きです。
ありがとうございました。
江戸東京たてもの園(その5) [名所案内]
おはようございます。
シルバーウィークも中間を過ぎ、今日と明日でおしまいですね。
木曜や金曜に休暇を取って、大型連休にしていらっしゃる方もいらっしゃるでしょうね。
私こと不肖讃岐人は、カレンダー通りです。
・・・それでは、「江戸東京たてもの園」の続きです。
今回は、激動の昭和史を見つめた、高橋是清邸です。
この建物の主であった高橋是清(たかはし これきよ:1854~1936)とは、第20代内閣総理大臣を務めた明治から昭和にかけて活躍した政治家であります。
もともとは英語の教師でしたが、経済にも明るく銀行の経営などでも手腕を発揮しました。そこで、その才能が認められ、時の政府に重用され、貴族院議員を皮切りに政治の世界に入り、日銀総裁などを務めた後、大蔵大臣や内閣総理大臣などを歴任しました。
大正末に一旦引退しましたが、衆議院議員選挙に出馬し当選し、その後も大蔵大臣を務めるなど活躍しました。しかし、1936年(昭和11年)2月26日、陸軍皇道派の青年将校らの起こしたクーデター(二・二六事件)により暗殺されました。
この建物こそ、高橋是清が反乱軍に襲撃され最期を遂げた家です。
この建物は、事件後程なく東京市(当時)に寄贈された後、高橋が眠る多磨霊園に移築され休憩所として使用されていたそうです。それを再度移築して、保存・展示しているそうです。
では、中を見てみましょう。はじめに1階の様子です。
行った日はまだ夏の陽気が残り、暑い日でありましたが、邸内は空調がなされていないにも関わらずひんやりとしていました。周りを高い木に囲まれ、また、日本家屋らしい風通しの良さで、夏でも快適さが保たれているようです。
次に2階です。
2階も15畳の部屋があり、さすがは明治から昭和にかけて活躍した大政治家の邸宅、といった風情です。
さらに奥の部屋へと進みます。
この部屋こそ、反乱軍により高橋是清が殺害された部屋なんだそうです。角度を変えて見てみます。
広いガラス戸がはめられており、見晴らしの良い部屋となっていました。なお、2階の縁側は建物の保護のため、立入禁止となっています。
普段はこの部屋で、高橋是清は過ごしていたそうです。この部屋には、在りし日の高橋の写真なども展示してありました。
最後に、部屋に掲げられていた高橋の書です。「不忘念」(初心を忘れるな)とのことでした。
今回はこれまでといたします。
次回は、東ゾーンに入ります。
ありがとうございました。
シルバーウィークも中間を過ぎ、今日と明日でおしまいですね。
木曜や金曜に休暇を取って、大型連休にしていらっしゃる方もいらっしゃるでしょうね。
私こと不肖讃岐人は、カレンダー通りです。
・・・それでは、「江戸東京たてもの園」の続きです。
今回は、激動の昭和史を見つめた、高橋是清邸です。
高橋是清邸
この建物の主であった高橋是清(たかはし これきよ:1854~1936)とは、第20代内閣総理大臣を務めた明治から昭和にかけて活躍した政治家であります。
もともとは英語の教師でしたが、経済にも明るく銀行の経営などでも手腕を発揮しました。そこで、その才能が認められ、時の政府に重用され、貴族院議員を皮切りに政治の世界に入り、日銀総裁などを務めた後、大蔵大臣や内閣総理大臣などを歴任しました。
大正末に一旦引退しましたが、衆議院議員選挙に出馬し当選し、その後も大蔵大臣を務めるなど活躍しました。しかし、1936年(昭和11年)2月26日、陸軍皇道派の青年将校らの起こしたクーデター(二・二六事件)により暗殺されました。
この建物こそ、高橋是清が反乱軍に襲撃され最期を遂げた家です。
この建物は、事件後程なく東京市(当時)に寄贈された後、高橋が眠る多磨霊園に移築され休憩所として使用されていたそうです。それを再度移築して、保存・展示しているそうです。
では、中を見てみましょう。はじめに1階の様子です。
行った日はまだ夏の陽気が残り、暑い日でありましたが、邸内は空調がなされていないにも関わらずひんやりとしていました。周りを高い木に囲まれ、また、日本家屋らしい風通しの良さで、夏でも快適さが保たれているようです。
次に2階です。
2階も15畳の部屋があり、さすがは明治から昭和にかけて活躍した大政治家の邸宅、といった風情です。
さらに奥の部屋へと進みます。
この部屋こそ、反乱軍により高橋是清が殺害された部屋なんだそうです。角度を変えて見てみます。
広いガラス戸がはめられており、見晴らしの良い部屋となっていました。なお、2階の縁側は建物の保護のため、立入禁止となっています。
普段はこの部屋で、高橋是清は過ごしていたそうです。この部屋には、在りし日の高橋の写真なども展示してありました。
最後に、部屋に掲げられていた高橋の書です。「不忘念」(初心を忘れるな)とのことでした。
今回はこれまでといたします。
次回は、東ゾーンに入ります。
ありがとうございました。
江戸東京たてもの園(その4) [名所案内]
おはようございます。
私こと讃岐人の住む地域では、土曜・日曜と良い天気が続き、今日もどうやら良い天気のようです。こういう日は、お出かけしたくなってきます。昼間は少し暑くなりますが、さわやかな秋の空気を吸いながら、野や山やフィールドミュージアムに出かけてみませんか?
と、いうわけで「江戸東京たてもの園」の続きです。
園内の西の端にあるもう一つの農家、それが「吉野家」です。
前回紹介した「綱島家」より、大きな造になっています。
かまどなども、土間に直接設置されているのではなく、上がったところに置かれています。
座敷も広くなっていて、かなり栄えた農家であったことがしのばれます。
さて、この他にも西ゾーンには建物がありますが、ここで東ゾーンに向けて移動します。
園の北側に、東西を結ぶ「武蔵野の道」という園路が整備されています。武蔵野の自然を再現した林の中を通る道です。
この、武蔵野の道に沿って、古代から近世に至る各種の遺構などが移築されています。
瀬戸岡1号墳の石室や、
敷石住居址など、他にもいろいろと移設・保存されていました。
今回はここまでといたします。
次回は、激動の昭和史を見つめた家の予定です。
ありがとうございました。
私こと讃岐人の住む地域では、土曜・日曜と良い天気が続き、今日もどうやら良い天気のようです。こういう日は、お出かけしたくなってきます。昼間は少し暑くなりますが、さわやかな秋の空気を吸いながら、野や山やフィールドミュージアムに出かけてみませんか?
と、いうわけで「江戸東京たてもの園」の続きです。
園内の西の端にあるもう一つの農家、それが「吉野家」です。
前回紹介した「綱島家」より、大きな造になっています。
かまどなども、土間に直接設置されているのではなく、上がったところに置かれています。
座敷も広くなっていて、かなり栄えた農家であったことがしのばれます。
さて、この他にも西ゾーンには建物がありますが、ここで東ゾーンに向けて移動します。
園の北側に、東西を結ぶ「武蔵野の道」という園路が整備されています。武蔵野の自然を再現した林の中を通る道です。
この、武蔵野の道に沿って、古代から近世に至る各種の遺構などが移築されています。
瀬戸岡1号墳の石室や、
敷石住居址など、他にもいろいろと移設・保存されていました。
今回はここまでといたします。
次回は、激動の昭和史を見つめた家の予定です。
ありがとうございました。
江戸東京たてもの園(その3) [名所案内]
こんばんは。
今夜は、「江戸東京たてもの園」の紹介の続きをお届けします。
西エリアには、三井八郎右衛門邸の更に西側には武蔵野の農家などを移築したエリアがあります。
その前に、三井八郎右衛門邸の隣に建っている「デ・ラランデ邸」があります。
ここは、「武蔵野茶房」という喫茶店としても営業していますので、一息つきたいときはお茶とケーキを頂きながら休憩することができます。
さて、これが農家(綱島家)です。
中はこんな風になっています。
昔の農家の生活がしのばれます。まさに「一つ屋根の下」ですね。
綱島家の西側には、奄美大島で使われていた貯蔵用の建物「奄美の高倉」が移築・保存されています。
湿潤な南西諸島の風土にあわせて、地面から高く作り、湿気などから中身を守っていたんですね。
今回はここまでといたします。
次回も、西ゾーンの続きです。ありがとうございました。
今夜は、「江戸東京たてもの園」の紹介の続きをお届けします。
西エリアには、三井八郎右衛門邸の更に西側には武蔵野の農家などを移築したエリアがあります。
その前に、三井八郎右衛門邸の隣に建っている「デ・ラランデ邸」があります。
ここは、「武蔵野茶房」という喫茶店としても営業していますので、一息つきたいときはお茶とケーキを頂きながら休憩することができます。
さて、これが農家(綱島家)です。
中はこんな風になっています。
昔の農家の生活がしのばれます。まさに「一つ屋根の下」ですね。
綱島家の西側には、奄美大島で使われていた貯蔵用の建物「奄美の高倉」が移築・保存されています。
湿潤な南西諸島の風土にあわせて、地面から高く作り、湿気などから中身を守っていたんですね。
今回はここまでといたします。
次回も、西ゾーンの続きです。ありがとうございました。
江戸東京たてもの園(その2) [名所案内]
おはようございます。讃岐人です。
今朝は、私の住む街では、ごろごろと雷が鳴っていて、誠におっかないです。
速やかにへそを隠したことは言うまでもありません。
さて、今日のたてもの探訪、ではなく記事は、「江戸東京たてもの園」西エリアの三井八郎右衛門邸の内部です。
「三井八郎右衛門」とは、現在の三井系各社の始祖である三井高利(みつい たかとし 1622~1694)の長男の三井高平(みつい たかひら 1653~1738)からの三井家当主が代々名乗っている名前です。
この家を建てた方は、第11代三井八郎右衛門こと、三井高公(みつい たかきみ 1895~1992)さんで、戦後の財閥解体などで三井系各社の支配権を失うなどの激動に遭いながらも、その後は三井系の幼稚園である「若葉会幼稚園」の経営などをされていた方です。余談ですが、同幼稚園はお受験界ではかつては「御三家」とよばれた位の名門なんだそうです。(ほかのふたつは、「松濤幼稚園」(閉園)と「枝光会幼稚園」だったそうです。)
もともとは1906年に建てられた本邸の一部だったそうです。その本邸の大部分が戦災で焼失し、1952年に残った建物をもとに、その他の三井家所有の物件を組み合わせて建てられたのが、現在見ることができる、この「三井八郎右衛門邸」なんだそうです。
では、内部を見てみましょう。
最初に当主である高公氏の寝室です。
寝室のある二階からの眺望です。
1階に移ります。かつては、大勢の使用人の皆さんが働いていたであろう、厨房と配膳室です。
食堂です。奥が客間となっています。
客間側から見るとこんな感じです。
食堂や客間からは縁側越しに庭がよく見えていました。(写真は、お客さんが多くて撮れませんでした。)
さて、その庭に突き出した形で建てられている「望海床」と呼ばれる部屋です。
西麻布に三井邸は建っていたのですが、もともと庭には茶室があり、その茶室に招かれたお客さんの控室として使用されていた部屋だそうです。
これで、今日は終わりです。
三井邸は、財閥当主の居宅でありながら華美に過ぎず、主人の人柄がしのばれるみごとな邸宅でありました。
それでは!!
2015年9月18日 記事改訂
今朝は、私の住む街では、ごろごろと雷が鳴っていて、誠におっかないです。
速やかにへそを隠したことは言うまでもありません。
さて、今日のたてもの探訪、ではなく記事は、「江戸東京たてもの園」西エリアの三井八郎右衛門邸の内部です。
三井八郎右衛門邸
「三井八郎右衛門」とは、現在の三井系各社の始祖である三井高利(みつい たかとし 1622~1694)の長男の三井高平(みつい たかひら 1653~1738)からの三井家当主が代々名乗っている名前です。
この家を建てた方は、第11代三井八郎右衛門こと、三井高公(みつい たかきみ 1895~1992)さんで、戦後の財閥解体などで三井系各社の支配権を失うなどの激動に遭いながらも、その後は三井系の幼稚園である「若葉会幼稚園」の経営などをされていた方です。余談ですが、同幼稚園はお受験界ではかつては「御三家」とよばれた位の名門なんだそうです。(ほかのふたつは、「松濤幼稚園」(閉園)と「枝光会幼稚園」だったそうです。)
もともとは1906年に建てられた本邸の一部だったそうです。その本邸の大部分が戦災で焼失し、1952年に残った建物をもとに、その他の三井家所有の物件を組み合わせて建てられたのが、現在見ることができる、この「三井八郎右衛門邸」なんだそうです。
では、内部を見てみましょう。
最初に当主である高公氏の寝室です。
寝室のある二階からの眺望です。
1階に移ります。かつては、大勢の使用人の皆さんが働いていたであろう、厨房と配膳室です。
食堂です。奥が客間となっています。
客間側から見るとこんな感じです。
食堂や客間からは縁側越しに庭がよく見えていました。(写真は、お客さんが多くて撮れませんでした。)
さて、その庭に突き出した形で建てられている「望海床」と呼ばれる部屋です。
西麻布に三井邸は建っていたのですが、もともと庭には茶室があり、その茶室に招かれたお客さんの控室として使用されていた部屋だそうです。
これで、今日は終わりです。
三井邸は、財閥当主の居宅でありながら華美に過ぎず、主人の人柄がしのばれるみごとな邸宅でありました。
それでは!!
2015年9月18日 記事改訂
江戸東京たてもの園(その1) [名所案内]
こんばんは。
So-netブログのシステムメンテナンスのため、深夜の更新です。
以前、小金井公園の事を書いたとき、公園内にある「江戸東京たてもの園」について、別の機会に書きますよ、みたいなことを申し上げました。それで、今日からしばらくの間、江戸東京たてもの園について書いていきます。
たてもの園正面のエントランスは、1940年(昭和15年)に皇紀2600年祝賀式典のために宮城前広場に建てられた「光華殿」を移築したものです。ここから入ります。
これが案内図です。今回は西エリアの建物の外観を紹介します。
田園調布の分譲が始まったころに建てられた家だそうです。今も田園調布は高級住宅街として有名で、「田園調布に家が建つ~!」なんていうギャグもありましたね。自治組織がしっかりしていて、土地の切り売りなどを抑止していたため、東京近郊の住宅街が土地の細分化やマンションなどの大規模開発により、住環境が変化しているのに対し、今も当初の開発計画に基づく街区が維持されているとか。ただ、近年は都心部のタワーマンションに富裕層が回帰する傾向にあるそうで、少し前には「最近の社長さんは、都心から遠い田園調布に住まない。」なんてことも報道で取り上げられていました。
建築家の前川國男(1905~1986)の邸宅です。
かつて写真館として使われていた建物です。
かつての三井財閥の本家の邸宅です。
今日は駆け足での紹介でした。
ご来訪ありがとうございました。
So-netブログのシステムメンテナンスのため、深夜の更新です。
以前、小金井公園の事を書いたとき、公園内にある「江戸東京たてもの園」について、別の機会に書きますよ、みたいなことを申し上げました。それで、今日からしばらくの間、江戸東京たてもの園について書いていきます。
たてもの園正面のエントランスは、1940年(昭和15年)に皇紀2600年祝賀式典のために宮城前広場に建てられた「光華殿」を移築したものです。ここから入ります。
これが案内図です。今回は西エリアの建物の外観を紹介します。
田園調布の家(大川邸)
田園調布の分譲が始まったころに建てられた家だそうです。今も田園調布は高級住宅街として有名で、「田園調布に家が建つ~!」なんていうギャグもありましたね。自治組織がしっかりしていて、土地の切り売りなどを抑止していたため、東京近郊の住宅街が土地の細分化やマンションなどの大規模開発により、住環境が変化しているのに対し、今も当初の開発計画に基づく街区が維持されているとか。ただ、近年は都心部のタワーマンションに富裕層が回帰する傾向にあるそうで、少し前には「最近の社長さんは、都心から遠い田園調布に住まない。」なんてことも報道で取り上げられていました。
前川國男邸
建築家の前川國男(1905~1986)の邸宅です。
常盤台写真場
かつて写真館として使われていた建物です。
三井八郎右衛門邸
かつての三井財閥の本家の邸宅です。
今日は駆け足での紹介でした。
ご来訪ありがとうございました。
中舞鶴駅跡の保存車両 [名所案内]
おはようございます。
今朝は宮城県にも降水に関する特別警報が発せられました。強い雨のために、その他の地域でも山が緩んでいたり、河川が増水したりしていますので、くれぐれもお気をつけください。
茨城・栃木両県やそのほかの地域で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げるとともに、現在行方がわからなくなっている方のご無事をお祈りいたします。
さて、今日は、古い写真を整理していたら出てきた、京都府舞鶴市の旧国鉄中舞鶴駅跡地に保存されているC58の113号機を紹介します。
「中舞鶴、なにそれ?西舞鶴と東舞鶴なら知っているけど?」とおっしゃる方も多いかと思いますので、ざっと説明すると、かつて、現在の東舞鶴駅付近から舞鶴市役所の前を通って、舞鶴市の「中総合会館」という建物のあるあたりまで至る国鉄の支線「中舞鶴線」があって、その終着駅が「中舞鶴」駅だったそうです。
現在は、線路跡は、東舞鶴駅から市役所付近までの部分は生活道路や遊歩道に、市役所から中総合会館までは国道の一部になっていて、容易に痕跡をたどることができます。
ご存知の通り、舞鶴は海軍の鎮守府が置かれた軍港でした。中舞鶴線は、軍港に物資や人員を輸送する目的で1919年(大正8年)に開設され、戦後も海軍工廠から転換した造船所などに物資を運ぶために使用されていましたが、輸送量の減少により1972年(昭和47年)に廃止されたそうです。
現在は、中舞鶴駅跡地は、舞鶴市の「中総合会館」と児童公園になっていて、その一角に、かつて舞鶴線を走っていたC58の113号機を、「小中学生のための活きた教材」として保存しているそうです。
なお、この機関車は1970年(昭和45年)に廃車されたものだそうです。
東舞鶴駅からだと、土曜や日曜に海上自衛隊の艦艇の見学ができる「北吸岸壁」や、海軍時代の史料を展示している海上自衛隊の「海軍記念館」(旧海軍機関学校大講堂)より奥にあるので、なかなか気づかれにくいんでしょうね。観光客らしい方は、見学する間は見かけませんでした。地元のお子さん方が、遊んでいらっしゃいました。
それでは!!
~交通アクセス~
JR「東舞鶴」駅または「西舞鶴」駅から路線バス(京都交通)「東西循環線」乗車、「中舞鶴」バス停または「造船所前」バス停下車、徒歩2分
京都、大阪、東京方面からの高速バスも「中舞鶴」バス停に停車するものがあります。
自家用車の場合、周囲に駐車場はありません。(中総合会館の駐車場はあります。)
今朝は宮城県にも降水に関する特別警報が発せられました。強い雨のために、その他の地域でも山が緩んでいたり、河川が増水したりしていますので、くれぐれもお気をつけください。
茨城・栃木両県やそのほかの地域で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げるとともに、現在行方がわからなくなっている方のご無事をお祈りいたします。
さて、今日は、古い写真を整理していたら出てきた、京都府舞鶴市の旧国鉄中舞鶴駅跡地に保存されているC58の113号機を紹介します。
C58113
「中舞鶴、なにそれ?西舞鶴と東舞鶴なら知っているけど?」とおっしゃる方も多いかと思いますので、ざっと説明すると、かつて、現在の東舞鶴駅付近から舞鶴市役所の前を通って、舞鶴市の「中総合会館」という建物のあるあたりまで至る国鉄の支線「中舞鶴線」があって、その終着駅が「中舞鶴」駅だったそうです。
現在は、線路跡は、東舞鶴駅から市役所付近までの部分は生活道路や遊歩道に、市役所から中総合会館までは国道の一部になっていて、容易に痕跡をたどることができます。
ご存知の通り、舞鶴は海軍の鎮守府が置かれた軍港でした。中舞鶴線は、軍港に物資や人員を輸送する目的で1919年(大正8年)に開設され、戦後も海軍工廠から転換した造船所などに物資を運ぶために使用されていましたが、輸送量の減少により1972年(昭和47年)に廃止されたそうです。
現在は、中舞鶴駅跡地は、舞鶴市の「中総合会館」と児童公園になっていて、その一角に、かつて舞鶴線を走っていたC58の113号機を、「小中学生のための活きた教材」として保存しているそうです。
なお、この機関車は1970年(昭和45年)に廃車されたものだそうです。
東舞鶴駅からだと、土曜や日曜に海上自衛隊の艦艇の見学ができる「北吸岸壁」や、海軍時代の史料を展示している海上自衛隊の「海軍記念館」(旧海軍機関学校大講堂)より奥にあるので、なかなか気づかれにくいんでしょうね。観光客らしい方は、見学する間は見かけませんでした。地元のお子さん方が、遊んでいらっしゃいました。
それでは!!
~交通アクセス~
JR「東舞鶴」駅または「西舞鶴」駅から路線バス(京都交通)「東西循環線」乗車、「中舞鶴」バス停または「造船所前」バス停下車、徒歩2分
京都、大阪、東京方面からの高速バスも「中舞鶴」バス停に停車するものがあります。
自家用車の場合、周囲に駐車場はありません。(中総合会館の駐車場はあります。)
若松城(鶴ヶ城)紀行 [名所案内]
おはようございます。
前回、仙台城(青葉城)見学のあと、「ラーメン二郎」仙台店に行った話をしました。(
「仙台城(青葉城)紀行」及び「ラーメン二郎訪問記~仙台店の巻~」参照)
今回はその続きです。
仙台市内のレンタルヴィデオ店で思いがけず「らむりん」との邂逅を果たし、涙に濡れたあと、福島県の会津若松市へと向かいました。
途中、休憩をとりながら、会津若松市に到着。
若松城(鶴ヶ城)を見学するために、西出丸の市営駐車場に車を置きました。到着した時刻は16時少し前、天守などの入場受付終了まで余り余裕はありません。そのため、見学も駆け足となってしまいました。
案内図の左手側に駐車場があり、梅坂から城内へと進みました。
内側に入ってすぐ、戊辰戦争の時、政府軍の攻撃が集中するも変わらず時の鐘を打ち続け、会津藩人士の士気を大いに高めたという「鐘撞堂」がありました。
そして、そこからは天守がすぐ見えました。
武者走りをぐるりと回って、本丸庭園の方へ向かいました。
ここで若松城の歴史について簡単に説明します。
1384年(至徳元年)に葦名氏が東黒川館を建てたことが若松城の始まりだそうで、1593年(文禄2年)に7層の天守が完成し城郭としての機能の整備が進み、同時に黒川から若松と地名が改められたそうです。
徳川氏の世になり、1627年(寛永4年)に伊予松山から加藤氏が移封され、天守を5層にしたり、西と北に出丸を整備したりして現在まで残る縄張となったようです。
その後、加藤氏は1643年(寛永20年)に改易となり保科氏が入城、その後は昨年の大河ドラマでも取り上げられた通り、1868年(慶応4年)会津戦争により落城、その後荒廃するに任せ、1874年(明治7年)に取り壊されたとのことです。
現在の天守は、1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート建てにより復元されたものです。(施工:間組(Hazama))
なので、天守の内部は郷土博物館になっていました。地下の塩蔵から第三層までは各種史料を展示、第四層は会津出身の歴史上の人物の紹介パネルの展示スペース、最上階の第五層は展望スペースとなっていました。
第四層以上は写真撮影が許可されていましたので、第四層の展示パネルからひとつ紹介します。
このパネルは、陸軍少将、後の若松市長であった松江豊寿(まつえ とよひさ 1872~1956)を紹介したパネルです。松江少将は、第一次世界大戦当時、徳島に設置された「坂東俘虜収容所」の所長を務めた人物であります。
当時、坂東俘虜収容所では国際法により定められていた以上に、ドイツ軍捕虜に対し人道的取扱を行ったそうです。この時の捕虜と日本人との交流については「バルトの楽園」という映画にもなっていたと記憶しています。徳島県内には、俘虜収容所の建物であったものが各所に移設・保存されているとか。
第一次世界大戦当時の捕虜収容所の多くが、資材不足や政府が示した捕虜の処遇の厳格化方針により、良好とは言えない状況にあったといわれている中、「賊軍会津」の出身者として敗者の苦しみを知っていたからこそ、捕虜に対しても最大限の配慮を行えたのかもしれません。
私こと不肖讃岐人、不勉強であったため、松江少将の名は知っていましたが、このパネルを見るまで会津の人であったことは知りませんでした。
さて、最上層からは城下から磐梯山に至るまで、素晴らしい眺望を堪能することができました。
ここで閉館5分前になってしまったので、急いで退出しました。
干飯櫓を通って外に出るのですが、途中は売店になっていて、いろいろなお土産を買うことができるようでした。また、大河ドラマで使用した衣装の展示もしていました。
外へ出て、本丸庭園周囲を見て回りました。最初は16時半までなら入場できる(閉館は17時)茶室「鱗閣」です。
次に、「荒城の月」の歌詞碑です。
土井晩翠は、仙台城と若松城の荒れ果てた姿から、詩の着想を得た、と言われているそうです。思わぬところで今回の旅がつながったと思いました。
ゆっくりと日が沈んでゆくなか、若干の感傷を抱きつつ若松城(鶴ヶ城)を後にしました。
2015年9月6日 タイトル修正
2015年9月9日 誤記修正
前回、仙台城(青葉城)見学のあと、「ラーメン二郎」仙台店に行った話をしました。(
「仙台城(青葉城)紀行」及び「ラーメン二郎訪問記~仙台店の巻~」参照)
今回はその続きです。
仙台市内のレンタルヴィデオ店で思いがけず「らむりん」との邂逅を果たし、涙に濡れたあと、福島県の会津若松市へと向かいました。
途中、休憩をとりながら、会津若松市に到着。
若松城(鶴ヶ城)を見学するために、西出丸の市営駐車場に車を置きました。到着した時刻は16時少し前、天守などの入場受付終了まで余り余裕はありません。そのため、見学も駆け足となってしまいました。
若松城(鶴ヶ城)案内図
案内図の左手側に駐車場があり、梅坂から城内へと進みました。
内側に入ってすぐ、戊辰戦争の時、政府軍の攻撃が集中するも変わらず時の鐘を打ち続け、会津藩人士の士気を大いに高めたという「鐘撞堂」がありました。
そして、そこからは天守がすぐ見えました。
武者走りをぐるりと回って、本丸庭園の方へ向かいました。
ここで若松城の歴史について簡単に説明します。
1384年(至徳元年)に葦名氏が東黒川館を建てたことが若松城の始まりだそうで、1593年(文禄2年)に7層の天守が完成し城郭としての機能の整備が進み、同時に黒川から若松と地名が改められたそうです。
徳川氏の世になり、1627年(寛永4年)に伊予松山から加藤氏が移封され、天守を5層にしたり、西と北に出丸を整備したりして現在まで残る縄張となったようです。
その後、加藤氏は1643年(寛永20年)に改易となり保科氏が入城、その後は昨年の大河ドラマでも取り上げられた通り、1868年(慶応4年)会津戦争により落城、その後荒廃するに任せ、1874年(明治7年)に取り壊されたとのことです。
現在の天守は、1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート建てにより復元されたものです。(施工:間組(Hazama))
なので、天守の内部は郷土博物館になっていました。地下の塩蔵から第三層までは各種史料を展示、第四層は会津出身の歴史上の人物の紹介パネルの展示スペース、最上階の第五層は展望スペースとなっていました。
陸軍少将 松江豊寿
第四層以上は写真撮影が許可されていましたので、第四層の展示パネルからひとつ紹介します。
このパネルは、陸軍少将、後の若松市長であった松江豊寿(まつえ とよひさ 1872~1956)を紹介したパネルです。松江少将は、第一次世界大戦当時、徳島に設置された「坂東俘虜収容所」の所長を務めた人物であります。
当時、坂東俘虜収容所では国際法により定められていた以上に、ドイツ軍捕虜に対し人道的取扱を行ったそうです。この時の捕虜と日本人との交流については「バルトの楽園」という映画にもなっていたと記憶しています。徳島県内には、俘虜収容所の建物であったものが各所に移設・保存されているとか。
第一次世界大戦当時の捕虜収容所の多くが、資材不足や政府が示した捕虜の処遇の厳格化方針により、良好とは言えない状況にあったといわれている中、「賊軍会津」の出身者として敗者の苦しみを知っていたからこそ、捕虜に対しても最大限の配慮を行えたのかもしれません。
私こと不肖讃岐人、不勉強であったため、松江少将の名は知っていましたが、このパネルを見るまで会津の人であったことは知りませんでした。
さて、最上層からは城下から磐梯山に至るまで、素晴らしい眺望を堪能することができました。
本丸庭園
磐梯山
ここで閉館5分前になってしまったので、急いで退出しました。
干飯櫓を通って外に出るのですが、途中は売店になっていて、いろいろなお土産を買うことができるようでした。また、大河ドラマで使用した衣装の展示もしていました。
外へ出て、本丸庭園周囲を見て回りました。最初は16時半までなら入場できる(閉館は17時)茶室「鱗閣」です。
次に、「荒城の月」の歌詞碑です。
土井晩翠は、仙台城と若松城の荒れ果てた姿から、詩の着想を得た、と言われているそうです。思わぬところで今回の旅がつながったと思いました。
ゆっくりと日が沈んでゆくなか、若干の感傷を抱きつつ若松城(鶴ヶ城)を後にしました。
2015年9月6日 タイトル修正
2015年9月9日 誤記修正
仙台城(青葉城)紀行 [名所案内]
おはようございます。
今日は、仙台城、またの名を青葉城を見学したことについてお話しします。
前回(「仙台二郎訪問失敗記」)ラーメン二郎仙台店を訪れたものの、「お盆休み」ということで閉まっていたので、仙台駅に行って寝台列車を見て「牛たん弁当」を買って宿に帰った、という所までお話ししました。
今回は、その翌朝からです。
仙台の夜は、静かに明けました。
宿を引き払った後、仙台城(青葉城)へ向かいました。
仙台城の本丸跡には、今は宮城縣護国神社が建立されています。
最初に、護国神社を参拝しました。
その後、周囲を見学しました。
有名な「伊達政宗騎馬像」や、
「荒城の月」の歌詞の作者である土井晩翠の像や、
大広間跡などを見ました。
その他にも、招魂碑や
「仙台城見聞館」
「青葉城資料展示館」も見学しました。
なお、「青葉城資料展示館」と護国神社の「英霊顕彰館」の見学は有料、「仙台城見聞館」は無料でした。
仙台城からは、仙台市街が一望できました。
伊達政宗も、同じように仙台の街を眺めていたのかもしれませんね。
今日はこれまでといたしたいと思います。
ありがとうございました。
それでは!!
今日は、仙台城、またの名を青葉城を見学したことについてお話しします。
前回(「仙台二郎訪問失敗記」)ラーメン二郎仙台店を訪れたものの、「お盆休み」ということで閉まっていたので、仙台駅に行って寝台列車を見て「牛たん弁当」を買って宿に帰った、という所までお話ししました。
今回は、その翌朝からです。
仙台の夜は、静かに明けました。
宿を引き払った後、仙台城(青葉城)へ向かいました。
仙台城の本丸跡には、今は宮城縣護国神社が建立されています。
最初に、護国神社を参拝しました。
その後、周囲を見学しました。
有名な「伊達政宗騎馬像」や、
「荒城の月」の歌詞の作者である土井晩翠の像や、
大広間跡などを見ました。
その他にも、招魂碑や
「仙台城見聞館」
「青葉城資料展示館」も見学しました。
なお、「青葉城資料展示館」と護国神社の「英霊顕彰館」の見学は有料、「仙台城見聞館」は無料でした。
仙台城からは、仙台市街が一望できました。
伊達政宗も、同じように仙台の街を眺めていたのかもしれませんね。
今日はこれまでといたしたいと思います。
ありがとうございました。
それでは!!